お金を払ったら何をしても許されるのかしら?

っていうエピソードを急に思い出した。
以前、内田有紀に幻滅したことを。

内田有紀が、まだ人気があったころ、海外に旅行にでかけ、ファッションにまつわる取材をしていた。

そこで、内田有紀が手に入れた「素材」は、現地の職人さんの手作りのアンティークのドレスだった。
それを、内田有紀は、職人さんの目の前で切り刻んで、自分のファッションセンスにあう衣装にしたてたのだ。
職人さんは「切り刻まないで」と懇願したが、内田有紀はそれを「私はこうしたいの」と断り、ドレスをただの布の切れ端として切り裂き、それを変な布に貼り合わせてファッションとした。

それをみたおれは「内田有紀はファッションセンスがあるな!」とは思わなかった。
伝統的なモノを、その職人さんの目の前で切り刻めるココロと、伝統的なドレスより自分のファッションセンスを疑わない彼女の姿に、唖然とした。

内田有紀は、そのドレスを「自分の使いたい素材として買った」のだ。
だから、彼女のモノになったドレスを、彼女がどうしようと、まあ問題ないといえば、そうかもしれない。
でも、やっぱり、なんか違うんじゃないの?と思ったのだ。

これは、別に内田有紀を反面教師にしたいのではなくて、ただただショックだったのだ。

そして、このコトは、ことあるごとに、今でもちょいちょい思い出す。
それは、最新ガジェットを、ぶっ壊す動画を、フイに見たときだ。
たとえば、ある最新のガジェットが発売されて、その中身がどうなっているのか知りたくなって、分解するのは、それは構わないと思う。
その構造がどうなっているのか?という知的好奇心からでた欲求で、分解する気持ちも分かる。
おれがショックを受けるのは、こういう「分解」ではなくて、ただただ「破壊」する記事だ。
最新のゲーム機が出ればハンマーで叩きぶちこわす。
そういう記事を読むと、ショックを受ける。
確かに、自分が買ったモノを、どうやって使っても構わない、のかもしれない。
でも、そのモノが生まれてきた理由というか、どう使って欲しいかってのがあると思うのだけど、そうして使ってあげて壊れたりするのは仕方ないと思うのよ。
そうして、使われて壊れたら、そのモノも成仏すると思うのよね。
モノが成仏って時点で、非科学的な話だけどもね。